"批評まがい"が溢れる時代に、宇野常寛が考える"プロ批評"の真髄とは?--SENSORS 評論家と語る未来

2018.09.04 18:00

「評論家と語る未来」をテーマに行われたSENSORSサロン。ゲストは評論家の宇野常寛氏だ。

全4回にわたってお届けする第2弾記事では、MCのお二人とゲストに、「一億総批評家時代」である現代において、プロの批評家にはいかなる素養が求められるのか議論してもらった。宇野氏は、「誰でも批評家になれるからこそ、シビアに実力が評価される」と語る。

SNSが普及し、誰もが好き勝手に"批評まがい"の投稿をできるようになった時代において、評論家はいかにしてプロフェッショナル性を担保しているのか?既存の権威をハックする"平家型"ではなく、独立勢力を形成する"源氏型"での社会変革を目論む宇野氏と、批評と社会の関わりについて議論していく。

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(左より)宇野常寛氏、齋藤精一

ジャンルを越境し、ダイバーシティをモデレート。議論の場に"異端児"が介在する意味とは?

--第一弾記事は、「専門領域内での蛸壺化を防ぐため、ジャンル越境的に物事を捉える評論家が必要だ」という議論で幕を閉じました。ジャンル越境的に語ることで、ダイバーシティが担保される意味合いもあるのでしょうか?

落合陽一(以下、落合):
そうですね。僕はダイバーシティ担保を期待され、専門家の集まりやセミナーに呼んでいただくことが多くあります。そういった場で僕が果たしている役割には、2つのパターンがあります。

ひとつは、僕自身の専門領域である教育やメディアアートについて議論する場に呼ばれた場合。僕は比較的、教育やメディアアート界隈の中でも尖った主張をするタイプなので、そこでは僕自身が異端児としてダイバーシティを生み出しています。

もうひとつは、僕の専門領域外のトピックを議論する場に呼ばれる場合。その際、僕自身が多様性をつくり出しているわけではありません。全く違うジャンルの人間として、多様性を生み出すための間口をつくっているんです。
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落合陽一

落合:
ある領域の専門家同士で専門用語を交わしていても、領域外の人は理解できません。しかし、僕のような異業種の人間が非専門用語に翻訳してあげることで、専門外の人が自分ごととして捉えられるようになります。同時に専門家も、自らの議論が非専門用語に翻訳されるのを目の当たりにするので、専門外の領域を意識せざるを得なくなる。すると、専門家と非専門家が同じ土俵に乗り、ダイバーシティが生まれるんです。
齋藤精一(以下、齋藤):
翻訳してくれる人は重要ですね。僕も専門領域外の車のイベントに呼ばれることがあるのですが、車の評論家の方々が、専門外の人には全く違いがわからないマニアックな議論をしていることが多いんですよ。そのままだと、僕ら専門外の人間は、「専門家とは話が噛み合わないな」と思って終わってしまい、議論がそれ以上広がりません。
宇野常寛(以下、宇野):
そこで、なぜ話が噛み合わないのかを説明するモデレーター的役割を果たしてくれる人が求められるんですよね。

専門領域に閉じこもっていると、ディティールの違いにばかり目がいってしまい、本質的な議論ができないんですよ。外部の人がいるからこそ、ジャンルの制約を疑って議論できる。専門家は専門領域内のニッチな変化には敏感だけど、社会全体で見たときの本質的な変化には気付けません。そこに気がつくようモデレートしてあげるのも、評論家が果たすべき役割のひとつだと思っています。

"奇跡の一発"の再現性が、素人とプロの分水嶺

--続いて、落合さんが挙げられたキーワード「一億総批評家時代」について議論していきたいと思います。

落合:
SNSが普及して、誰もが好き勝手に"批評まがい"の投稿をできる時代になっているじゃないですか。そんな"一億総批評家時代"において、プロと素人の違いはどこにあるのか気になります。たまに素人でも奇跡の一発のような優れた発言をしているのを目にするのですが、プロの評論家はそういったアマチュアとどう差別化していけば良いのでしょうか?
宇野:
シンプルに、高い質のテキストを継続的に生み出せる人だけが生き残っていくんだと思います。奇跡の一発を当たり前のように生み出せる能力を持っている人だけが、プロになれる。
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宇野:
そもそも、評論家は他人の作品や既に起こっている事象について語る、メタ言説の専門家です。全ての評論は二次創作でしかない。それって究極的には、クオリティを問わなければ誰でもできるんですよ。
落合:
たしかにそうとも言えますね。
宇野:
ただインターネット登場以前は、評論を発表できる場が限られていました。ある程度の知的訓練をして、ある特定の業界に入って、ある特定の職能を得た、小さなコミュニティに属する人間だけが評論を世に届けられたんです。よって、テキストの質があまり高くなくても、評論を発表できている時点である程度評価されていた。
宇野:
しかし、インターネットやSNSの普及によって、誰もが自分の書いたテキストを世に送り出せるようになりました。落合さんが言う"一億総批評家時代"の到来ですね。すると、評論を発表すること自体の価値が薄れ、純粋にテキストの質だけで勝負する世界になってくる。
黒田有彩:
宇野さんはその状況についてどうお考えなのでしょうか?
宇野:
僕はそれで良いと思っています。誰でも批評家になれるからこそ、シビアに実力が評価される。それゆえに、昔と比べて、本当に良いものだけが残っていく時代になりつつあるのではないでしょうか。

既存の権威をハックする"平家型"ではなく、独立勢力を形成する"源氏型"

齋藤:
とはいえ、批評によって時代の潮流をつくっているという意味では、二次創作ではなく、正真正銘の一次創作だと思います。
宇野:
そうですね、僕もメタ言説だけにできることがあると信じています。ただ、「メタ言説で潮流をつくっていると勘違いする人が増えている」という問題もあります。ワイドショーのコメンテーター気取りで、SNS上で皆が盛り上がっている話題に便乗してコメントするような人。彼らの言動は、ただ他人に石を投げてスッキリしたいだけで、世界の見方を変えるメタ言説でもなんでもない。
落合:
「何がかっこいいのか」を定義しないとだめですよね。批評はファッションに近いものがあるんじゃないかと思っています。
宇野:
おっしゃる通りです。「AとBではAの方が大きい」といった、定量的な正しさを追求するだけなら、ある程度頭の良い人なら誰でもできる。しかし批評は、「真」・「善」・「美」でいうと「美」の領域の営みで、課題解決ではなく問題設定が目的なんです。アーティストが作品をつくるのとあわせて、言葉によって「何がかっこいいのか」を定義するのが批評家の役割だと思います。
齋藤:
そういった潮流をつくっていくための、方法論についてもお伺いできますか?
宇野:
世界を変える方法は、"平家型"と"源氏型"に二分されると思うのですが、僕は後者の"源氏型"でアプローチしたいと思っています。"平家型"は、京都の朝廷で絶大な権威を獲得したのちに改革を進めていった平清盛を想像してください。既存のシステムを徹底的にハックしてから、新しいものを取り入れていくスタイルです。

対して"源氏型"は、鎌倉の片田舎に独立勢力として幕府をひらいた源頼朝のように、既存の権威とは完全に離れた場所に新しい領域をつくり、それを草の根から拡大していくモデルです。僕はこのアプローチで、東京に渦巻く"業界の空気"に縛られず、自分が価値があると思えるものだけを発信していきたいですね。
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齋藤:
宇野さんよりも少し年上である僕の世代は、団塊世代の名残が少し残っているので、"平家型"が主流な気がします。
宇野:
そうかもしれません。ただ逆に、落合さんをはじめとしたアラサーの世代は、もう一回りして"平家型"に寄ってきている気もしています。僕の世代が仮想敵にしていた戦後レガシー的なものの影響力が弱まったのと、インターネット環境の整備によって既存の権威をハックしやすくなっているので。

続く第3弾「宇野常寛が語る"落合陽一の思考"の読み解き方--SENSORS 評論家と語る未来」では、MCのお二人とゲストに、宇野氏が編集を担当した落合陽一氏の新著『デジタルネイチャー』について議論しててもらう。宇野氏は、「『デジタルネイチャー』は、言語では解釈できないことを、テクノロジーを活用して非言語的に実装することについて書かれた本だ」と語る。

後半では、今後日本がより面白くなっていくためには何が必要かを考える端緒として、「メディアアートへのアプローチ」について語ってもらう。宇野氏は、「従来のアートとは別の文脈で、日本固有のアートを追求する潮流が必要だ」と提言する。日本固有の価値をつくり出すため、いま落合陽一やライゾマティクスはどんな役割を果たすべきなのか、徹底的に追求していく。

↓↓↓OA動画は下記よりご覧いただけます。↓↓↓

(落合陽一が語るデジタルネイチャーとは?ゲスト:宇野常寛(評論家と語る未来 2/4))

構成:小池真幸

93年生まれのライター・編集者。AI系スタートアップのマーケターを経て、現職。関心のベクトルは、人文知をバックグラウンドにビジネス・テクノロジーを考えること。
Twitter:@masakik512



編集:オバラミツフミ

1994年、秋田県出身。2016年からフリーランス。各種メディアでのインタビュー連載・ブックライティングがメイン。
Twitter:@obaramitsufumi

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